菊理姫 くくりひめ
日本酒のお話です。私がまだ20代のとき、西池袋の三業通りに住んでいました。三業とは料理屋、芸者屋、待合茶屋のことです。昔ながらの風情がところどころに残ってる細長い、少し不思議な通りでした。休日の午後には近所のクリーニング屋のおじいちゃんが、バイオリンを奏でてるのが似合う通りだったのです。
さてある日、帰宅がてらロサ会館近くで、表に書かれてた酒の肴に惹かれて一升瓶がずらーと店先に並んでる飲み屋さんに入りました。店内も日本酒の銘柄と1杯分の価格が書いてある冊がそこら中に貼られており、価格も1杯600円から上は5,000円(時価)というふうでした。そうそこは日本酒ツウの通う『舎人庵』だったのです。
ほどなく50代位の店主らしき人物が注文をとりにきました。
店主「何を飲まれますか?」
私 「じゃ、ビールで」
店主「日本酒はお好きでないのですか?」(チョット怪訝気味に)
私 「はい、マズくて臭いから嫌いです」
店主「ではお酒は何がお好きなのですか?」(ほうという感じで)
私 「今はドイツの白ワインに凝っています」
次の瞬間、店主が心からニコっと微笑んだのです。絶対に日本酒を好きになるはずと確信したからです。
店主「ドイツの白ワインに負けない日本酒があるのですが、飲んでみますか?」
私 「本当ですか。では飲ませていただきます」
記念すべき最初は1杯600円の〆張鶴(しめはりつる)でした。店主はすかさず感想を聞いてきました。私は「癖が全くなく、天然水のような、すぅっと喉に入ってくる感じがします」そして心から「美味しい」と答えました。
すると上機嫌にうんうんと頷き、2杯目を出してくれました。やはり1杯600円の萬寿鏡(ますかがみ)でした。店主は私の味覚を探るように、感想を求めてきました。私は「お米のような、麹の香がふんわりと感じます」と答えると、何か納得気な表情をしていました。
このときを境に私の日本酒感はかわりました。でも「不味くて臭い」と言ったことも、ウソではなかったのです。粗悪な合成アルコール酒をTVでがんがん宣伝し大量製造、販売している、そういう酒は、「不味くて臭い」のです。
上機嫌になってきた私は、次はふと目についた1杯3,500円の酒を飲みたいといいました。当然喜んで出してくれると思ったのですが大間違いでした。
店主「このお酒を飲むのは10年早いですよ。少しずつ修行していき、私がいいと思ったら出します。それに酒の味がわかるのは2合が限界ですから、もうおやめになってください。」
どうやら、店主は生意気な私をいたく気に入ってくれ、本気で「酒」というものを教えてくれるようです。これが私とマスター(店主)のある種の師弟関係の始まりでした。その後、ことあるごとに訊ねる私に、その都度新しい酒とまつわる話や作法や酒の肴に至るまで心行くまで語ってくれたものです。たぶん私は童話聞く子供のように、目を輝かせ聴き入ってたはずです。
そして半年後、10年早いといわれた酒を飲むことができました。その酒はマスターのお気に入りの石川県菊姫酒造の「吟」です。このお酒は衝撃的でした。芳醇な米の香と数パーセントの添加アルコールによるキレが絶妙でした。日本酒がドイツの白ワインに勝った瞬間です。この吟は、後日私がサンフランシスコ近郊の取引先に、お土産としてもっていったほどのものです。もちろん米国でも大好評でした。
マスターとのお付き合いはその後池袋を離れるまで数年続きました。貴重な酒が入れば、先ずマスターに口をつけてもらい、次は私がのみ、そして店で働く人たちにも、振舞いました。飲んだときのいい笑顔をみるのが好きでしたし、舎人庵で働く以上は凄い日本酒を知ってて欲しいからです。そして粋に楽しめれば最高でした。日本酒は口切が本当に美味しいので、いい酒ほど直ぐに飲んであげないと可哀そうです。
こんな私が最高峰と思う酒上位3位とお薦め酒二つを紹介しておきます。新酒は11月〜1月位が旬なのでもう売り切れてたら次まで待つしかありません。
第1位 石川県 菊姫 菊理姫
菊理媛(くくりひめ)は、上述の「吟」と同じ菊姫酒造のさけです。出荷するまでに十余年の歳月を必要とします。私は伝説の杜氏、農口尚彦氏作のを飲むことができました。一口飲んだ瞬間、もうそこは「侘び寂び」の世界です。
第2位 新潟県 清泉 亀の翁
漫画「夏子の酒」のモチーフにもなった清泉(きよいずみ)久須美酒造のさけです。頑としてプレミアを付けさせない姿勢にも感動します。亀の翁(かめのお)を一口飲むと「幸せの風」がふくんです。